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自由への道 15世紀以降、ブラジルで砂糖の生産が盛んになり、 かなりの労働力が必要とされ、まず始めにインディオ(先住民)たちがその労働力にあてられました。 しかし、自然と共存し、生活に必要以上の労働というものに馴染みのない彼らは、仕事には全く適していませんでした。 インディオたちのほとんどは、働くことを拒否し、反抗したり逃げ出したりしました。実際に、その多くが殺されてしまいました。 それゆえ、開拓者たちは代わりとなる労働力を求めなくてはなりませんでした。そこで、丈夫で、強く、安く手に入る アフリカの黒人たちをブラジルに連れてくることにしました。1539年より奴隷制の開始です。彼らは、足枷をはめられ、鎖でつながれ、身動きのとれない状態で何十日もかけ、 船に乗せられブラジルに運ばれてきましたが、そのほとんどは飢えや病気で新しい土地に足を踏み入れる前に死んでしまいました。 16世紀から19世紀にかけての長い奴隷制度の期間のなかで海を渡るときにすでに命を落としたアフリカ人だけでも550万人と言われています。 そのアフリカ黒人たちの起源は、多くはアンゴーラから、そしてギニア、コスタ ダ ミナでした。主にバイーアやリオ デ ジャネイロ、ヘシフェ、ペルナンブーコに降ろされていきました。 そのいったなかで生き残った者は、到着するやいなやポルトガル人貴族によって売られていきました。黒人たちは何の権利も与えられず、 奴隷という名のもとに労働を強制され、働かない者は皆殺されました。彼らは反乱や逃亡を企てましたが、 逃げ場所のない彼らにとってはそのほとんどは死を伴う危険な選択でした。連れ戻された者は、 他の奴隷に恐怖感を与えるための見せしめとして、皆の前で残酷な体罰や処刑が待っていました。運良く逃亡に成功した者も ジャングルでの生き延びる術を知らず、そこで死を迎えました。黒人奴隷は、そこで人間として扱われることは決してありませんでした。 しかし、彼らは働くだけの動物ではなく、自分の意志を持ち、独自の文化、伝統、習慣と信仰を持つ個人の人間でした。 毎日が死と向い合せの残酷な生活の中でさえ、彼らは決して生きる希望を捨てませんでした。 そんな生活の中で、彼らの慰めは、遠い母国への思いを胸に、歌い、踊ることでした。彼らの心には、終わりのない奴隷生活、皮肉な運命への怒り、憎しみ苛立ち、 悲しみと母国への郷愁が溢れていました。そんな彼らは、自分たちの感情のすべてを歌と踊りに込め踊り続けました。 やがてその悲しみは少しずつ運命に立ち向かう勇気や自由への希望へと変わり、そのリズムは、戦いの音色となり、 その踊りは自由を勝ち取るための手段として変化していったのでした。 自由への道、唯一彼らに残された手段は、歌い、踊り続けることでした。 手作りの楽器でリズムをとり、そのリズムに合わせて歌い、手拍子をし、輪の中で二人の人間が向い合せになり、 まるで踊っているかのように、攻撃したり身をかわしたりして、実際の戦いにおける技の訓練と身体を鍛えていたのでした。 一人が踊るように蹴りやパンチなどの攻撃を与えると、相手もそれに答えるように踊るようにして身をかわします。 それは決して相手に命中することではなく、どちらかが勝ち、破れる格闘技のようでもなく、 はたまた単なるリズムに合わせた踊りではない、不思議な動きでした。輪の中にいる者は、自由への希望を胸に抱き、 辛い現実の生活を忘れ、一時の幸福感に浸ることができました。 それを見ていたポルトガル人の支配人たちは、ただ奴隷たちが楽しそうに歌って踊っているだけにしか捉えられず、 後にその踊りが黒人奴隷たちの最強の武器になろうとは想像もしませんでした。その歌は、奴隷たちの悲痛な叫びであり、 その踊りは自由を手にするために残された最後の手段なのでした。 時は流れ、彼らの訓練は相手に致命的な打撃や、さらには殺傷能力のある強力な戦いの武器として使われる程にまでなり、 戦いの時を迎えました。反乱によって強力な武器を手に入れた黒人奴隷たちは、自由の待つ森へ逃げ出しました。 カポエィラは、そんな黒人奴隷たちの自由を願う気持ちから生まれたのです。 Home 質問・意見などは: info@caisdomar.net
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